2006年11月1日
三重県松阪市
本居宣長記念館と鈴屋

徳川中期、暴れん坊将軍吉宗の時代、1730年に、近世国学を大成した本居宣長(もとおりのりなが)が、松阪に誕生しました。
家は江戸にも店をもつ木綿商でしたが、学問好きの宣長の将来を考え、母は宣長には医者の道を進ませることにしたそうです。


本居宣長記念館は、松阪城跡内にあります。


展示室は2階にあります。 「古事記版本宣長手沢本」には、宣長の書入、付箋、張り紙などがおびただしく入っています。


宣長が愛用していた、鈴やすずり、本箱です。


昼間の宣長は、開業医でした。


記念館の隣にある本居宣長旧宅です。
もとは魚町通りにあったものを、明治42年、保存のため、松阪城跡地内へ移されました。


宣長12歳から亡くなるまで住んだ建物です。医業としての仕事をしながら、古典の講義や歌会を開いていました。

二階の書斎の床の間の柱に、鈴をかけていたことから、「鈴屋(すずのや)」と呼ばれます。


昼は、玄関脇の「店の間」で医業を開いていました。


夜になると、奥中の間などで、古典の講釈や歌会を催していたと伝えられています。


宣長の古事記研究は35年の歳月をかけた「古事記伝」44巻として大成されました。
門人となるものは、全国に500名を超えたといわれています。


とても幅の狭い階段です。宣長は、身長170センチ位だったそうですが、窮屈そうに登ったと思います。

宣長は、源氏物語や和歌も深く研究し、「もののあわれを知る」ことがテーマという文学論を打ち立てました。「もののあわれ」とは、物や事に触れて揺れ動く人の心であり、その極地が恋であると説きました。人の心は弱く女々しいとする説は、儒教や仏教的倫理が支配する時代において画期的なものでした。




宣長は、63歳にして紀州藩に仕官し、その前後からの各地への出張講釈などにより、国学はますます世に広まりました。


外から建物の横側をみたところです。




●ももみ様のお声(2006年11月8日)


「本居宣長記念館と鈴屋」
名前は聞いたことはあったのですが、何をした人だったのか分かりませんでした(^^;)
こういう記念館や旧宅を見に行くのが好きなので、ワクワクして写真を見ました(*^^*)
上手に写真を撮っていて、なんだか行ってきたかのような気分になりました。