2006年11月1日
三重県松阪市
御城番屋敷

松阪城裏門跡から続く石畳にある、整然とした武家屋敷は国指定重要文化財です。
松阪は江戸時代、紀州藩に属しておりました。幕末、御城番屋敷は、松阪城を警備する紀州藩士の住居として建築されましたが、すぐに明治維新を迎えてしまうことになりました。


松阪城裏門跡付近の石垣です


裏門跡と搦手門(からめてもん)跡を結ぶ石畳の道の両側に槇垣を巡らした武家屋敷があります。国指定重要文化財の建造物の御城番屋敷(ごじょうばんやしき)です。
松阪城の警備を任務とする紀州藩士とその家族の住居として、文久三年(1863年)に建築されました。屋敷は現在も子孫の方々が維持管理し、住居として用いられています。


松阪市が借り受け、復元整備した公開住戸が1戸あります。


御城番武士の祖先は徳川家康の先鋒隊、横須賀党です。元和五年(1619年)に家康の子にして紀州藩祖の頼宣の家臣として、紀州藩内の田辺に居住し「田辺与力」として、田辺城主に助勢する立場の藩主直属の紀州藩士でした。


ところが、230年を経た安政二年(1855年)になって、田辺の家臣という達しが下りました。田辺与力たちは、藩主直属の直臣である誇りを傷つけられ、陪臣(藩主の家臣の家来)という立場に憤り、安政三年に暇願いを出して放浪の身となります。


浪人生活6年の間も、紀州藩への帰藩嘆願を続け、海弁僧正などの支援を受け、文久三年(1863年)に松阪城の御城番として、藩に復帰することができました。




その後、すぐに訪れた明治維新、廃藩置県、徴兵制といった武士身分が消滅させられていく時代、苗秀社(びょうしゅうしゃ)という会社を興し、激変に対抗しました。


苗秀社の会社綱領では、紀州藩祖徳川頼宣と海弁僧正の恩義を忘れてはいけないことが誓われ、今も、苗秀社の人たちは、二人の祭祀を欠かしません。




紀州藩祖徳川頼宣(南龍公)を祭神とする南龍神社です。


南龍神社の隣の土蔵は、松阪城内隠居丸に建てられていた米蔵を明治初期の頃に、御城番屋敷付近に移したものと言われています。


●ももみ様のお声(2006年11月10日)


11月1日の松阪市の御城番屋敷、
建物を通して歴史を垣間見るのは楽しいですね。
もしかしたら自分のご先祖様だったかもしれないですしね(^^)
細部に渡る写真の多さと詳しい説明で、まるで行って見てきたかのように思えて、大変楽しめました。
学生時代、社会科は苦手分野だった一人ですが、おかしいものですね、勉強しなくていい状況になると、苦手だったものに興味が沸々と・・・(^^;)